火を利用する

昨日の続きです。
人間が偶発的にせよ火を手に入れて、暖をとったり、灯りにしたり、生肉を焼いたり、野獣から身を守ったり、道具に使ったりしていたのは百数十万年前かららしい。
何らかの燃料(枯れ枝なのか、松やになのか、獣脂なのか)が、火による急速な酸化反応で光や熱のまったく別のエネルギーに変換される。すばらしいと彼らは思っただろう。
で、彼らは「エネルギーの無駄使い」を考えただろうか?僕は「考えた」と思う。屋外では幾ら薪をくべてもなかなか暖かくならないが、洞窟の中でくべると格段に暖かくなる。少ない燃料で家族が暖かくなる。寒い氷河期に外で薪探しをする手間が省ける。薪のくべ方にも工夫が凝らされ、少ない燃料でうまくやりくりする煮炊き名人もいただろう。
火なり、そこから発生する熱なりを使って物質の化学変化なり物理変化なりを起こせる様になったのは(理屈は分からなかろうが)大きな進歩なのだろう。爾来百数十万年、火は人類の大事なパートナーであったろう。火だけでは無い。きっと風もパートナーだったろう。太陽は言わずもがな。
このような自然のエネルギーを利用する際には、人間は上記の様に常に「効率」を考えたであろう。限りあるリソースをいかに有効に使おうかと、現代人以上に考えたに違いない。
古代アレクサンドリアの工学者・数学者であったヘロンが「ヘロンの蒸気機関(右図)」を考えたのが紀元10年頃〜70年頃。多分これが世界で最初の熱エネルギーから運動エネルギーへの変換装置。
そして、ワットがそれまでの方式に比べて格段に効率の良い蒸気機関を開発した1769年あたりから歴史は忙しくなる。しかしこれらの方式では、古代人の様な火や熱の直接的な使い方から大きく離れて、熱を媒介(仲介物)にしてしまった。そして、仲介物の「熱」が無駄になろうがいつしか気にしなくなってしまったのだろうか?
(多分)続く